物心ついたときからぼんやりとした不安がぺったりくっついている。大人になればそういうの治るよ、なんて思春期のときに大人に言われたけれど、やはりぼんやりした不安は大人になった私にぺったりくっついており、しょうもない日々のエピソードを発端にそれらがぬっと全身を覆う。
そんなとき、芥川龍之介のこの有名な文章を思い出す。
君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。
この前、パーソナルトレーニングのトレーナーさんと雑談していたときに「神社とか行くとモチベがあがったりポジティブになれる気がするんですよね」と言っていた。トレーナーさんはモチベ上げに対する話が好きなのだ。
よくあるただの雑談ではあるが(ほんとうにそうか?)、こういう類の話を分解すると、単純に「大丈夫って言われたい・思いたい」という話なのだろうなと思った。ぼんやりとした不安をすべて包み込むように、絶対的な包容力によって自分は大丈夫なのだということにしたい…のだろうな、と。
対して、私が自力で育てられる安心感など、所詮は後天的に身に着けたほころびだらけのものなのだから、全然まともに機能しない。SNSを見るのも、どうでもいい話を職場の人と交わすのも、言動のひとつひとつが”大丈夫”かどうかの確認であって、他人をカカシみたいに扱いながら、すべて自分のためだけに行う儀式なのだと自覚する。自覚すると、またぼんやりとした不安に覆われる。その繰り返しが我が人生
そんなことをぼんやり考えていたら、毛づくろいの延長で猫が私の腕を舐めてくれた。嬉しいですが痛いです。